『ラカニアンレフト』と消費主義(2021/2/19)
例えば中吊り広告を見て、あるいはツイッターの新刊告知を見て、ひとは本を欲望するだろう。
書店に赴き、あるいはAmazonでポチって、ひとは本を購入するだろう。
家で、カフェで、図書館で、音楽を聞きながら、コーヒーを飲みながら、あるいはなにもせずに、ひとは本を消費するだろう。
ところで、欲望するとはなんだろうか。
ひとは欲望する、しかし、なぜ、何を?
それはなんらかの本能を満たすための動物的─機械的な必要needではない。ましてやそれを満たすために必要となる、他者とのコミュニケーション、そしてその副産物としての愛loveでもない。
欲望するとは、現実的な領野において、必要を満たすための「欲求besoin」ではないし、それを他者に伝達するための、象徴的な領野における「要求demande」でもない。
そうではなくて、欲望するとは、欲求と要求の弁証法において、つねにそこからこぼれ落ちてしまう始原的な「(不)満足」──現実界と象徴界の「裂け目」──を「欲望désir」することなのだ。
欠如と欲望の不幸な「結婚」。いや、結婚と離婚の終わりなきシーソーゲーム。したがって、欲望は「満たされる」ことを知らない。欲望は対象の周りを回り続ける。そして、その「対象」とは対象=原因としての対象aである。
まぎれもなく、こうした欲望と欠如の関係を暴き出したのは、精神分析家ジャック・ラカンであった。
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さて、『ラカニアン・レフト』の著者、ヤニス・スタヴラカキスはラカン理論を政治経済分野に接ぎ木しつつ、消費主義について論じる。
彼は著書全体において、ラカン理論における「享楽(さしあたりは「不快の快」と定式化しておこう)」の重要性を強調し、エルネスト・ラクラウを代表とする言説理論が情動的側面を見逃していることを批判する。
したがって消費主義を論じるにあたっても、そうした「主義(そんなものがあるとすれば)」を成立せしめている言説の配分の諸法則を分析するのではなく、より享楽という非─言説的側面にフォーカスした分析がもとめられる。
もちろん、享楽や情動に言説的側面がないわけではない。
しかしながら情動の「情動性」を言説によって汲み尽くしてしまうような凡庸な身振りはいささか食傷気味と言わざるを得ないだろう。
それはある種の「合理化」に、ラカン的に言えば象徴界的な構造分析のみに帰着してしまう。
彼は合理的選択モデルに基づく伝統的な消費社会分析、つまり主流派経済学の「ホモ・エコノミクス」仮説に依拠した経済学的分析を批判し、ラカン理論における「欲望と享楽の問い」をそれに対置させる。
「本章で私が議論したいのは、次のことである──根底的な批判において支配的な形式である「恨み事」のような議論が、消費文化を基礎づける享楽のダイナミズムを想像することすらできなかったこと、そして、そのような議論が「虚偽意識」のパラダイムに捉えられ、欲望と享楽の問いであったものを、知と合理性の問いに還元してしまい、現実主義的なオルタナティブを一切提供できなかったこと、さらにその結果として起こったのが、(究極的には不能である)抑制の文化の敗北であること、これである。(290)」
要するに、広告産業に基づく消費主義は「合理的」に分析しても仕方なく、そこにはむしろ非─合理的な、というよりも「情動的」な問いが横たわっているということである。
こういってみると、「ホモ・エコノミクス」は人間をわかっていない!そこには汲み尽くせないものがあるんだ!という、入学したての学部生的な反抗がどうしようもない形で反復されているように見えるかもしれない(その問いはもちろんあって然るべきなのだが)、が、そうはいっても、消費社会分析において情動が情動そのものとして取り扱われていない、というのはもっともらしい。
では、消費主義における「欲望と享楽の問い」とはなにか?
冒頭で述べたように、欲望は「完全に満たされることはない」。
とすれば、消費社会における商品の「乱造」やブランドによる「差異化」は、まさにその「満たされることなき」欲望のメトニミー的性格と密接に関係しているのではないか?
スタヴラカキスによれば、「[…]消費主義が次々と商品を生産することや、広告によって新しい欲望を刺激することや、欠如と欲望のあいだの弁証法の操作に依拠することは、人間の現実の象徴的構成にとって無縁ではない。(293)」
象徴的秩序から常にこぼれ落ちるものとしての始原的(不)満足──あるいは、享楽──は欲望の到達点にはなり得ない。
これを買えばあれが欲しくなり、あれに飽きればそれが欲しくなる──その、循環。
欲望のメトニミー的構造、と言った。メトニミーとは「部分で全体を表象すること」である。したがって、欲望がメトニミー的であるとは、欲望は部分対象=原因としての対象aを通じて、失われた現実的なものとしての「享楽(=全体性)」を目指す、という図式を指しているのだが、不幸なことに、部分は全体にはなり得ない。
さて、ここで冒頭の「例えば」である。
ひとは本をなぜ欲望するのだろうか。
いまやそれは明らかなはずだ。
すなわち、ひとは対象aとしての本des livresを換喩的に読み続ける──あるいは、読み滑る──ことで、全体としての「本」なるものUn livre──それは「絶対知」といってもよいかもしれない──を追い求めているわけである。
そもそもひとは本を欲望しているのではない。一者としての「本なるもの」を欲望しているのだ。
この思想家の著作を次々に読んでいけば、その思想家の「すべて」を知ることができる。さあ、読みなさい、読み続けなさい。
しかし、こうした試みはもちろん失敗する。
なぜなら、不可避的に象徴の秩序のもとで生きるわれわれにとって、全体としての享楽はつねにすでに獲得しそこなわれものでしかないからである。
では象徴を超えればよいのか?
もちろん、それは不可能である。不可能である以前に、それはひとの思い上がりである。「言語では表しきれないもの」にノスタルジーを抱くのはひとの勝手だが、それが「獲得できる」と思うのであれば、まさしくファシストの夢想にほかならない。
まとめよう。消費主義の戦略とは、欲望のメトニミー的性格を巧みに利用し、「広告」によって消費者の「失われた現実的なもの」に対する欲望(もちろん、これは失敗を義務付けられている)を喚起することで、その最上位審級としての資本主義を永続させることにある。
スタヴラカキスは言う。
「享楽を命令する社会において、私たちは消費者として呼びかけられる。この呼びかけは、「消費せよ、欲望せよ、享楽せよ」といった一見したところ無害な指令を、後期資本主義を維持し、服従とシニシズムを再生産するような欲望と享楽の構造化へと翻訳することに成功している(314)」。
いまや消費者は次の倒錯的命令──それは「資本主義」という超自我による命令である──に服従せざるをえない。
すなわち、「万国の消費者よ、享楽せよ!」
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などど吹聴しておきながら、ドトールでコーヒー片手に本を消費している僕なのであった。
(2021/02/19)