『フランケンシュタイン』、あるいは矮小存在としての怪物(2021/2/23)

ひとは一人では生きていけない。

これほどまでに使い古された警句もそう多くはないだろうと思いつつ、しかしそこには一種の途方も無い「正しさ」が込められているという気がしてしまうのも、それはそれでまた、いつの時代にも古びることのない「真実」なのかもしれない。

してみれば、昨今のアカデミズムにおける「ケア」や「依存」への注目も、突き詰めてみれば「ひとは一人では生きていけない」ということの政治的再確認なのではないか。

要するに、競争と自己責任を称揚する一連の言説が意識的にも無意識的にもひとびとを侵食する現代の加速的社会状況において、「ひとは一人では生きていけない」といういかようにも否定し難い「事実」を諸言説のフロンティアにおける「抵抗」として(再)発見しようとする、その身振り。

そうだ、人ははひととひとが支え合って生きている(!)

しかし、ちょっと待ってほしい。人はその「事実」を、あらゆる人間存在はつねにすでにだれかに依存しているのだという「真理」を、──あるいはこう言っても良いかもしれない──「生の根源的な受動性」を、みずからの身体でもって受け容れることは果たしてできるのだろうか。

ところで、古代ギリシアでそうであったように、あるいはまた、現代でもそうであるかもしれないように、セックスにおいて受動的な振る舞いをする主体は、どこまでも忌避され、他者化される(男性同性愛者における「ウケ(ネコ)」を想起されたい)。

ここで駆動しているのは受動性の抑圧(フロイト)の機制にほかならない。ひとは──あるいは男性的=能動的であることを前提とする近代的主体は──みずからが受動的な享楽に浸るその姿を容認できないのだ。

とすれば、「ひとは一人では生きていけない」ということも、近代的主体としての「ひと」にとっては耐え難いはずだ。いや、というよりも、あらゆる受動性への嫌悪はこの「事実」に対する耐え難さに帰着するのではないか。

そしてその「事実」は、この世に産み落とされた赤子の「寄る辺なさ(フロイト)」に収斂する。つまり、生それ自体の他者=養育者への依存、母子一体の幻想。

この時期の幼児は統一的な自我を持っておらず、それゆえに自律という観念それ自体を知らない。言語はまだなく、泣き声とつたない身振りが反復される。

しかし幼児は母子一体の幻想に浸り続けることはない。やがて象徴界ラカン)に参入し、他律的に言語をインストールすることで、逆説的にも「主体化assujetissement」することとなる。つまり、ひとは二度生まれる。一度目は母によって、二度目は言語によって、というわけだ。

したがってそこにはある種の人間疎外がある。ひとは言語という他者を受け容れることで主体になるが、そこから言語化できない過剰なものとしての「自己」が不断に逃れ去っていく、という疎外。

前置きが長くなったが、最近、久しぶりに小説を、ということでメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読んだ。

ざっくり説明しておくと、この作品は生命の創造に成功した科学者ヴィクター・フランケンシュタインが、その創造物たる「怪物」があまりにも醜くおぞましい容貌をしていたがゆえにその場から逃亡、みずからの「罪」に苦悩し、怪物は怪物でその醜さゆえの孤独や人々の拒絶にあえぎ、創造主たるフランケンシュタインへの復讐を誓って彼の家族や友人、婚約者をつぎつぎに殺害してゆく──といった展開になっている。

さて、細かい内容は読者の観察に委ねるとして、僕が提起したいのは次のような問いだ。すなわち、なぜ『フランケンシュタイン』に登場する「怪物」はあれほどまでに醜く描かなければならなかったのか──。

まず、『フランケンシュタイン』における「怪物」(怪物がフランケンシュタインなのではないということに注意)は、フランケンシュタイン博士(創造主)に対して被造物の位置を占めている。

言い換えよう。怪物はこの世に生を享けた──まさに「創造主」によって(!)──のであり、その存在にはつねに受動性の烙印が押されている。

生まれたばかりの頃を回想して怪物は言う。「おれは哀れで、無力で、みじめな存在だった。何もわからず、何ひとつ識別できず、身体じゅうのあちこちから苦痛が侵入してくるばかりだった。おれはその場に坐り込んで泣くしかなかった。」(207)

ここに表象されているのはまさしく生まれたての赤子の「寄る辺なさ」そのものである。彼は無力さや苦痛に対してただただ受動的に振る舞うしかない。つまり、彼にはそれらを「昇華」する言語は存在せず、ただただ涙をあたりに撒き散らすことしかできないのだ。

そしてその「寄る辺なき」存在は、近代的主体にとってはなによりも耐え難いものであった。とりわけ、近代科学の申し子たるヴィクター・フランケンシュタインにとっては。

ここでフランケンシュタインはそうした根源的に受動的な存在者としての怪物を「養育」することを拒絶する。つまり彼は「母親」になり損ねた、というわけだ。

根源的な受動性に直面することへの恐怖としてのネグレクト。そしてそれは、突き詰めれば「幼児としての過去の自分」を想起することの拒絶である。寄る辺なき存在としての自己。たしかに存在した幼児期の自己。

仮に答えを出しておこう。なぜ怪物はあれほどまでに醜く描かれざるを得なかったのか。それはまさしく、怪物が母親の乳に生かされていた「過去の」フランケンシュタインの投影にほかならないからである。

と、特段こうした読みの独自性を強調するわけでもなんでもなく、おそらくこのような読みは巷に溢れかえっていることだろうが、それでもやはり、僕には「怪物」がフランケンシュタインの内部に宿った「他者」の投影にしか見えないのである。

精神分析理論やいわゆるポストモダン思想が暴き出したのは、われわれが自明のものとしてきた統一的な自己さえも近代が生み出した虚妄に過ぎず、その内部にはなんらかの統一体に還元しえない複数性pluralityがうごめいているということだった。

しかしながらそうした複数性は近代的主体にとっての最高悪になりうる。なぜならそれは自己のうちに異質なものたる他者を内包することを含意し、自由と自律の基盤たる自己─同一性を不断に侵食せんとする反─「リベラリズム」的概念にほかならないからだ。

こうして啓蒙のプロジェクト(カント─ハーバーマス)は挫折し、瓦解する。

ゆえにこそ、仮に意識的─言語的に複数性という概念が受容され、容認されたとしても、無意識的─現実的にはそれは忌避され、棄却される。某かの近代的主体は、女性に、同性愛者に、障害者に、心からの寛容と連帯を表明するが、彼の身体はそれらを拒絶し、他者化する。彼は決してそれらに「なるbecome/devenir」ことはない。

フランケンシュタイン』が描き出すのは、そうした自己と自己のうちの他者との葛藤である。それはさながら、意識と無意識の境界をさまよう精神分析臨床のようだ。複雑な入れ子構造をなす諸アクターの語りかけは、まさに分析主体の「告白」にほかならない。読者が経験するのはあたかもみずからが精神分析医になったかのような稀有にして不気味な事態である。

いまやフランケンシュタインはみずからの無意識にその生を明け渡しつつある。彼は譫言に声を貸す。「ウィリアムを、ジュスティーヌを、そしてヘンリー・クラーヴァルを殺した張本人はほかならぬ自分だ[…]」(351)。もはやフランケンシュタインと怪物の、意識と無意識の、自己と他者の、生物と無─生物の、理性と感情の、その他もろもろの二項対立は、二人の死への誘われによって消尽しつつある。

彼らの精神分析は「終わった」のだろうか…

ひとは一人では生きていけない。しかし、ひとは一人では生きていけないということに耐えられない。その先にあるのは、「生きる」という大前提の否定なのだろうか。主体の無機物化としての死の欲動。それが答えなのだろうか。

ヴィクター・フランケンシュタインは死んだ。怪物は「闇のはるか奥へと消えていった」(446)。

そう、怪物は死んだわけではない。ただただ消えていったのだ。闇の奥、あらゆる主体の消失点へ。死ぬのではなく、矮小になること。膨張する主体を貧困化し、肥えた肉を削ぎ落とした、その末に見いだされる、一粒の黒砂。

フランケンシュタインの家族がつぎつぎと殺されていく過程、それはどこにでもある凡庸な悲劇ではない。この一粒を見出すための「剪定」なのだ。

生きることも死ぬことも拒絶し、矮小存在になること。すべての関係性の結節点たる闇、そこに輝きを持たぬ光、一粒の黒砂が穏やかに轟く。それはおそらく、微小表象たる無意識にのみ許された諸存在の極北なのだ。そう、根源的な受動性の体現者たる「怪物」にのみ開かれた、鮮やかな鈍色の抵抗。

誰への?すなわち、あらゆる解釈的実践の主体たる「作者=創造者」への。

生きるとも死ぬとも違った形で存在論を考えてみたい、と常日頃から思っているのだが、『フランケンシュタイン』はどうもそれに適していたらしい。なんの脈絡もなく、ただただ偶発的に訪れる外傷に対して、われわれがなしうること。それはおそらく、滑稽に身を縮めることでしかないのだろう。

2021/2/23

メアリー・シェリー著芹澤恵訳『フランケンシュタイン新潮文庫、2015