恋愛についての覚書

*あくまでメモです

顔か性格かという選言が巷でよく言われる。
簡単にまとめてしまえば、それは「外見か内面か」という二者択一である。
けれども僕はこの感覚があまり良くわからない。
留保しておけば、僕はこの二者択一を否定することで恋愛において超越然としようとしているわけではない。
また、それとは違った第3項を持ち出すことによってこの強固な選言を回避することができるということを言わんとしているのでもない。
もちろん、顔か性格かという議論を馬鹿正直に受け止めて、それをプラグマティックに分析しようというのでもない。
僕はこの二項に内在しつつ、しかしながらそれには汲み尽くされないような概念を考えている。外見と内面のあわいにある、掴み難いそれ。
ところで、そもそも外見と内面は恋愛という枠組みにおいて等価なのだろうか。
個々人の主体がどちらを好きこのんで選び取るにせよ、恋愛という概念は歴史的に「内面」の方にアクセントを置いてきたのではなかったか。
西洋哲学の文脈では、精神/身体という二元論において、長らく前者の方に価値が置かれてきた。たとえば、プラトンデカルト
それに加えて、近代にはロマン主義の「勃興」によって内面の透明性=真理が言祝がれるようになった。たとえば、ルソー。つまり、社交界での表面的な関係ではなくて、その奥にあるはずの”その人”性=アイデンティティに重きが置かれる。そしてアイデンティティとは自己同一性のことにほかならないわけだから、その不変性によって真理の真理性が担保される。
こうして恋愛は急速に「内面」化することとなった。つまり、恋愛の個人主義化。というのは、家同士の社会的関係性ではなくて、個々人の尺度がダイレクトに恋愛につながる、という意味で。恋愛は必然である。その根拠はイエではなくジブンにある。
内面という言葉に違和感があるのであれば、私秘化といってもいいかもしれない。つまり恋愛は「見えるもの」から「見えないもの」へと、言い換えれば表層から深層へとその住処を変えた。
恋愛の規範は明らかに内面の方にある。
外見という論理が内面に並置されなければならないのは、そうした恋愛の私秘性に対する冷笑によるものだったのではないか。アイデンティティアイデンティティの戯れに対するどうでもよさ。
僕たちはその冷笑にある種のモノガミー規範に対する抵抗を見て取ることができる。対象選択の「だれでもよさ」。彼らは内面の透明化がはらむ全体主義の匂いを巧妙に嗅ぎ取っている。恋愛は偶然である。外見という部分と部分が偶々交わるだけの。
とはいえ、おそらく恋愛はすべてが偶然性によって成り立っているわけではない。そこには主体の意図とは無関係な無意識的必然性がある。ラカンはこれを対象aと呼んだ。
たとえば、主体は対象の性格や個性といったその人のその人性(すなわちアイデンティティ)によって恋愛を行っていると思っている。しかしながら、ラカンによればそれは想像的な次元の話に過ぎない。
では対象選択はどのように運命づけられているか。それは象徴的なものによって、である。というより、シニフィアンの自律性によってという方がいいだろう。
どういうことか。ラカンは主体を必然的に言語という〈他者〉によってつねにすでに捉えられてしまったものだと考える。とするならば、主体の意図も〈他者〉によって構造化されているはずだ。つまり、主体を統御しているのはシニフィアンの法であり 、対象選択もご多分に漏れず、というわけである。
たとえば、対象を愛していると思ったら、実はその対象が母親のイニシャルと同じだったから、とか、もっといえば、いままで愛してきた対象のイニシャルはすべて母親のそれと同じだった、とか。分析の場では、こういうことが頻繁に起きたりするらしい。
もちろん、イニシャルだけではない。こういった欲望の原因=対象のことをラカン対象aとよんだのだ。要するに「君自身の中に君以上のものを」というわけである。いささかわかりにくいが、言ってみれば、性格とか個性とかはその原因=対象の周りを揺らいでいる幻想(あるいは玉葱の皮)のようなものなのであって、そこに対象選択の本質はないということだ。
一方でそうした対象aはすべての人間に共通というわけではない。先程象徴的なものが対象選択を運命づけると言ったが、正確には現実的なものと象徴的なもののズレを埋めておくためのものがそれを運命づけるのだ。
現実的なものは完全な偶然性の次元である。そこではいかなる言語化も機能しない。ゆえに因果は存在しない。
対象aとはそうした現実的なものを象徴的なもので置き換える時に必然的に生じる穴trouを埋めに来る「クズ」なのだ。現実的=偶然的な──あるいはその人固有の──〈わたし〉を象徴的=必然的な〈わたし〉で置き換える。ゆえに、そのズレを埋める対象aは偶然と必然のあわいに位置していると言える。だからこそ対象aは象徴的な必然性を持ちつつ、その人固有の偶然性をも有している。
煩瑣になったのでまとめよう。恋愛は完全に必然でも完全に偶然なのでもない。その人固有の仕方で必然的なもの。此の性をもつ必然性。
それはもしかすると、こういってもよいかもしれない。外見でありながら内面でもあり、それでいて外見でも内面でもない、〈形態〉の次元。
外見というほどシャープなのではなく、内面と言うほどブラントなのでもない。ある一定のゆらぎを持ちながら、同時にそれなりの輪郭を有した、〈形態〉の美学。
人は全体同士では繋がれない。本当のジブンなど他者には理解されない。そもそも、「本当のジブン」は自分ですらわからない。わかってたまるものか。
かといって部分同士でのみつながるのも難しい。人はそれでも全体を希求してしまう。それが恋愛という制度のもたらした呪縛なのだから。
逃走線はどこに引かれるのだろう。それは「アドホックな全体性」へと。部分がそれ自体で全体になること。その時だけの、閉じた体系。あるいは、一夜だけの。
言っておけば、別に、ワンナイトラブにロマンを抱いているわけではないのだ。かといって人はワンナイトでしか繋がれないとニヒルになっているわけでもない。一夜は何度あったってよい。
しかし、それでも、一夜はそれだけで、それ自体で完結している。そう考えてみる。そう考えてみたい。そう考えてもよいはずなのだ。
それはあらゆる追想を拒絶する。解釈も、分析も、想起も寄せ付けない。関係の網の目を跳ね返す、すりガラス状の仄暗さ。それは、輪郭を備えた闇である。輪郭、ベッドに飛び散った精液みたいな。
対象aとしてのワンナイト。いつかクズとして捨てられるがゆえに、逆説的に触れられることのない一夜。空っぽの浣腸ボトル。縛り損ねたコンドーム。醤油臭い精液。愛すべきあのクズたち。あれがすべてだったのだろうか。