終わりある一日

(ちょっとした短編小説です)

  中央林間から長津田方面へ、田園都市線の薄暗い線路が伸びていた。

 ところどころに屹立する高層ビル、そしてそれらが放つ健全で市民的な光が行き先を照らしている──かのようだった。

 時刻は21時を回っていた。それほど遅くない、と思いつつ、スウェットのポケットにしまったスマホが二回振動して、いやいや、それなりに遅いのだ、ということをいやでも認識する。

 二回の振動とは、つまり母親からのメッセージを意味する。おそらく帰宅がそれなりに遅くなっているので、心配してメールでもよこしてきたのだろう。

 僕はいくばくかの罪悪感を感じつつ、20歳になっても過保護なままの母に苛立ちを覚える。そして腹いせにメッセージを無視する。もちろん、母親の言い方もだいたいは遠回しだ。過保護なことを自覚しているのかもしれない。「鍵閉めとくから自分で入って」とかなんとか。しかしそこにはたしかな母権の眼差しがある。フーコーとかを読んでいる僕からすれば、それに耐えられる道理はなかった。

 歩きだしてかなりの時間がたった。もう1時間半ぐらいだろうか。昼から家で遊び、流れでセックスして、それから歩いて僕の最寄りまで行こう、と言い出したのはいったいどちらだっただろうか。僕の気もするし、そうでない気もする。

 途中で歩きながら酒を飲もう、と彼が言い出したので、二人でコンビニに立ち寄った。彼がレモンサワーを手にとったので、僕もそうした。とりあえず僕は檸檬堂の7%。彼のはよく知らないメーカーのものだった。

 その缶ももう空になった頃合いに、たまたま見つけたミニストップで用を足す。ミニストップがいまだに存在していたのか、と驚く。ファミマに買収された、とかなんとか聞いていたんので、てっきり店ごとなくなったのかと思っていた。

 とりあえず用を足し終える。どうやら二人ともすでに酔いが回って、今はと言えば、良いが回りきったあとの正気に戻る感覚にぷかぷかと浮かんでいる。それはそれで心地よい、といってしまえるほどの感覚。

 足がつかれたので公園か何かで休憩しよう、と僕が言う。アルコールのせいかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにせよ、時間はそれほど気にしなくてよいはずなのだから、多少休憩しても許されるだろう。許される、と思うのは、僕の母親に対する罪悪感の現れなのだろうか。

 ひとまず母ではなく彼からの許しは得た。というより、彼も疲れていたらしかったから、休憩する方向で合致した、と言ったほうがいいかもしれない。そうこう話していると、大通りの自動車にあおられて、ふいに醤油みたいな臭いがする。二人ともそれなりに汗をかいているからだろうか。男の臭いだな、と思う。その事実に素直に驚く。

 早速グーグルマップで近くに公園を見つけたので、とりあえずそちらに向かう。帰路からは少し外れるが、まあいい。帰りたくない、というわけでもないはずなのだが。いや、帰りたくない、というのも、それはそれであるのかもしれない。

 電子地図によって与えられた「公園」という文字列とは打って変わって、たどりついた先には丘状の湿った草原しかなかった。もっとベンチがあって、遊具があって、というのを求めていたのだが、これはこれでいいのかもしれない。とりあえず丘を登って、ひと目のつかなそうな薄暗がりに切り株を見つけ、そこに腰掛ける。二人とも大して大きくないので、一つを二人で共有することにする。

 「好きだけど、まだ付き合うのは早いかな。なんかチャラいじゃん」

 彼が突然言い出す。僕は別に告白もしていないし、好きだとも言っていないのだが。それでも、なんだか「負けた」気がしてしまう自分に、微妙にムカつく。ムカつくが、そんな自分を愛おしい、とも思う。なぜだかはわからない。

 ところで、「チャラい」とはどういう意味で言ったのだろう。ゲイ向けマッチングアプリで出会って三回目程度で彼氏になる、ことに対してなのか。そこらへんの規範はよくわからない。グーグル検索の最上位に出てくる記事によれば、異性愛カップルでは三回目程度のリアルで告白するのが定石らしい。つくづくよくわからない、と思う。

 僕は「そう」と返す。返答になったかはわからない。そもそも何に対して返答しているのかもよくわからない。ただ、あたりに立ち込めるまとわりつくような雑草の臭いだけが確かだった。

 「この業界って、性欲だけで動く人多いじゃん、だから、付き合うならその人の内面とか本質を慎重に見極めたいな、って。半年ぐらいはさ」

 そういう意味だったのか、と思いながら、性欲の上に恋愛を置くような紋切り型で市民的な価値観に辟易とする。こんなとき、どこから説明したものか、とついありがちな研究者のパターナリズムを繰り出してしまいそうになる。それをじっとこらえる。いや、こらえられそうにない。

 「フーコー」というあまりにも厳つい固有名が喉元まで出かかっている。人の内面っていうのは近代の産物で・・・とか、本質とかアイデンティティとかって疑うべきもので・・・とか。しかしここは読書会でも研究発表会でもない。とりあえずその案は喉元で保留する。

 「確かにわかるけど、俺は人の本質がどうかってことじゃなくて、人と人が関係して人がどう変わるか、っていうことに興味があるんだよね。たとえば、俺なんかはもともとストリートカルチャーとか陽キャっぽくて大嫌いだったけど、ある哲学者に影響されてそういうファッションし始めたら、なんか個人的にしっくりきちゃったんだよね。みたいなさ」

 代わりにそう言ってみるが、どことなく自己啓発セミナーみたいな臭いがしたので、すかさず「自己啓発セミナーじゃないけどさ」と言っておく。ふいに出た「俺」という一人称が眩しすぎて痛い。いちおう、フランス現代思想を下敷きにしたつもりの解説だった、のだが、固有名を出さないことで逆にぎこちなくなってしまった。

 「それは、僕の「慎重に見極めたい」って考えも変えられる、ってこと」

 ああ、そういう捉え方になるのか。どうやら彼は、僕が半年も待てないから「変化」を持ち出すことで別の仕方で口説こうとしている、と思ったらしい。「いや、そうじゃなくて」と言ってみて、意外とそうだったのかもしれない、と思う。でも、そうじゃない──のかもしれない。すくなくとも、それがすべてではない。

 「それぞれ人には本質があって、それを知るために恋愛する、って、なんか俺は面白くないと思うんだよね。それより、お互いなんかよくわからないまま影響し合う、みたいな方がスリルあっていいと思うんだけど」

 「ああ、たしかにね」

 「もちろん俺個人の考えだから、別に鵜呑みにしてくれなくて大丈夫だけどさ」と付け加える。

 「自分の考え、か。僕、自分の考えってあんまり言うの得意じゃないんだよね」

 「そう、そっか」

 何秒間か沈黙があった後、唐突に彼が泣き出した。理由はよくわからない。少しだけわかるような気もする。

 「ごめんね、泣いてるのはさ、なんか怖くて」

 彼が言う。

 「自分、同性愛者ってこともあってさ、いままで自分の意見とか、ずっと隠して生きてきたんだよね。なんか言われるんじゃないかって、怖くてさ」

 「うん」

 どうやら彼は、僕が「自分の考えを述べた」ということに触発されたらしい。ただ酔うために作られたような市民的レモンサワーが、そのキリリとした酸味で、因果関係をめちゃめちゃにしてしまう。僕はと言えば、彼の悩み自体はおそらくよくあるもので、特に驚きはしなかった。ここで無理に共感するのも違うし、言ってごらん、と諭すのも違う。だから僕はうなずくことしかしなかった。その時、一瞬だけ、僕は分析主体の発話に区切りを入れる精神分析家のあり方が理解できた気がした。同時に、僕は彼のスクリーンになっていく自分にそこはかとない快感を覚えていた。自己破壊、というよりも、自己の構成要素たる部分が無数のそれに発散していき、なおかつそれらが無関係なまま並置されている、という感覚。多方面に散らばる光子。それらが僕の表面で波をなす──かのように振る舞う。

 しばらく背中をさすって、彼は泣くのをやめた。正直、彼の涙の理由とか、彼のアイデンティティへの問いとか、そういうことにはあまり興味がない。興味がない、というより、昔からそういう「内面」的な話が苦手だった。苦手であるがゆえに、過剰に共感を示し、しまいには自分が疲れてしまう。それもそれで万人の「あるある」のうちの一つにすぎないのだろうか。ともかく、僕はそういう話を馬鹿正直に受け取ることだけはしたくなかった。

 それでも、僕は、彼の話を聞いている──というより、撥ね返していることに、途方も無い快楽を見出している。それは彼に共感できたからでも、彼の内面を知れたからでも、ましてや彼の本質を理解できたからでもない。そうではない。そうではなくて、それはおそらく、会話という営為が、それらだけがすべてなのではない、ということを知ってしまったからなのだろう。

 一方で僕は彼の方を見つめ、一方で僕はまったく別の方を向いている。それらの眼差しは相互にまったく関係していない──のだが、偶然並置されてしまっている──かのように、振る舞っている。かのように。僕と彼は市民権の光に導かれて帰路をたどる──かのようにして、まったく別の方角へ進もうとしている、のだろうか。それは明るさとも暗さとも違う、たしかな輪郭をもち、それでいて流動している、仄暗さの、煮こごりみたいな仄暗さの、その方。その方へ──

 「23時だけど」

 「え」

 「終電あるしそろそろ行こうか」

 「うん」

 最寄りまではまだ30分ほどかかるらしい。いっそ終電に乗りそびれてしまえばいい。いや、そうなったら面倒だ。僕は帰れるが、彼は帰れない。泊めていく場所もないし、そもそも現在進行系で金欠なのだった。

 とりあえずここまでか。そう思いながら、僕は今日という日に句点を打つ。もしかすると、読点で良かったりもするのかもしれない、などと逡巡しながら。

恋愛についての覚書

*あくまでメモです

顔か性格かという選言が巷でよく言われる。
簡単にまとめてしまえば、それは「外見か内面か」という二者択一である。
けれども僕はこの感覚があまり良くわからない。
留保しておけば、僕はこの二者択一を否定することで恋愛において超越然としようとしているわけではない。
また、それとは違った第3項を持ち出すことによってこの強固な選言を回避することができるということを言わんとしているのでもない。
もちろん、顔か性格かという議論を馬鹿正直に受け止めて、それをプラグマティックに分析しようというのでもない。
僕はこの二項に内在しつつ、しかしながらそれには汲み尽くされないような概念を考えている。外見と内面のあわいにある、掴み難いそれ。
ところで、そもそも外見と内面は恋愛という枠組みにおいて等価なのだろうか。
個々人の主体がどちらを好きこのんで選び取るにせよ、恋愛という概念は歴史的に「内面」の方にアクセントを置いてきたのではなかったか。
西洋哲学の文脈では、精神/身体という二元論において、長らく前者の方に価値が置かれてきた。たとえば、プラトンデカルト
それに加えて、近代にはロマン主義の「勃興」によって内面の透明性=真理が言祝がれるようになった。たとえば、ルソー。つまり、社交界での表面的な関係ではなくて、その奥にあるはずの”その人”性=アイデンティティに重きが置かれる。そしてアイデンティティとは自己同一性のことにほかならないわけだから、その不変性によって真理の真理性が担保される。
こうして恋愛は急速に「内面」化することとなった。つまり、恋愛の個人主義化。というのは、家同士の社会的関係性ではなくて、個々人の尺度がダイレクトに恋愛につながる、という意味で。恋愛は必然である。その根拠はイエではなくジブンにある。
内面という言葉に違和感があるのであれば、私秘化といってもいいかもしれない。つまり恋愛は「見えるもの」から「見えないもの」へと、言い換えれば表層から深層へとその住処を変えた。
恋愛の規範は明らかに内面の方にある。
外見という論理が内面に並置されなければならないのは、そうした恋愛の私秘性に対する冷笑によるものだったのではないか。アイデンティティアイデンティティの戯れに対するどうでもよさ。
僕たちはその冷笑にある種のモノガミー規範に対する抵抗を見て取ることができる。対象選択の「だれでもよさ」。彼らは内面の透明化がはらむ全体主義の匂いを巧妙に嗅ぎ取っている。恋愛は偶然である。外見という部分と部分が偶々交わるだけの。
とはいえ、おそらく恋愛はすべてが偶然性によって成り立っているわけではない。そこには主体の意図とは無関係な無意識的必然性がある。ラカンはこれを対象aと呼んだ。
たとえば、主体は対象の性格や個性といったその人のその人性(すなわちアイデンティティ)によって恋愛を行っていると思っている。しかしながら、ラカンによればそれは想像的な次元の話に過ぎない。
では対象選択はどのように運命づけられているか。それは象徴的なものによって、である。というより、シニフィアンの自律性によってという方がいいだろう。
どういうことか。ラカンは主体を必然的に言語という〈他者〉によってつねにすでに捉えられてしまったものだと考える。とするならば、主体の意図も〈他者〉によって構造化されているはずだ。つまり、主体を統御しているのはシニフィアンの法であり 、対象選択もご多分に漏れず、というわけである。
たとえば、対象を愛していると思ったら、実はその対象が母親のイニシャルと同じだったから、とか、もっといえば、いままで愛してきた対象のイニシャルはすべて母親のそれと同じだった、とか。分析の場では、こういうことが頻繁に起きたりするらしい。
もちろん、イニシャルだけではない。こういった欲望の原因=対象のことをラカン対象aとよんだのだ。要するに「君自身の中に君以上のものを」というわけである。いささかわかりにくいが、言ってみれば、性格とか個性とかはその原因=対象の周りを揺らいでいる幻想(あるいは玉葱の皮)のようなものなのであって、そこに対象選択の本質はないということだ。
一方でそうした対象aはすべての人間に共通というわけではない。先程象徴的なものが対象選択を運命づけると言ったが、正確には現実的なものと象徴的なもののズレを埋めておくためのものがそれを運命づけるのだ。
現実的なものは完全な偶然性の次元である。そこではいかなる言語化も機能しない。ゆえに因果は存在しない。
対象aとはそうした現実的なものを象徴的なもので置き換える時に必然的に生じる穴trouを埋めに来る「クズ」なのだ。現実的=偶然的な──あるいはその人固有の──〈わたし〉を象徴的=必然的な〈わたし〉で置き換える。ゆえに、そのズレを埋める対象aは偶然と必然のあわいに位置していると言える。だからこそ対象aは象徴的な必然性を持ちつつ、その人固有の偶然性をも有している。
煩瑣になったのでまとめよう。恋愛は完全に必然でも完全に偶然なのでもない。その人固有の仕方で必然的なもの。此の性をもつ必然性。
それはもしかすると、こういってもよいかもしれない。外見でありながら内面でもあり、それでいて外見でも内面でもない、〈形態〉の次元。
外見というほどシャープなのではなく、内面と言うほどブラントなのでもない。ある一定のゆらぎを持ちながら、同時にそれなりの輪郭を有した、〈形態〉の美学。
人は全体同士では繋がれない。本当のジブンなど他者には理解されない。そもそも、「本当のジブン」は自分ですらわからない。わかってたまるものか。
かといって部分同士でのみつながるのも難しい。人はそれでも全体を希求してしまう。それが恋愛という制度のもたらした呪縛なのだから。
逃走線はどこに引かれるのだろう。それは「アドホックな全体性」へと。部分がそれ自体で全体になること。その時だけの、閉じた体系。あるいは、一夜だけの。
言っておけば、別に、ワンナイトラブにロマンを抱いているわけではないのだ。かといって人はワンナイトでしか繋がれないとニヒルになっているわけでもない。一夜は何度あったってよい。
しかし、それでも、一夜はそれだけで、それ自体で完結している。そう考えてみる。そう考えてみたい。そう考えてもよいはずなのだ。
それはあらゆる追想を拒絶する。解釈も、分析も、想起も寄せ付けない。関係の網の目を跳ね返す、すりガラス状の仄暗さ。それは、輪郭を備えた闇である。輪郭、ベッドに飛び散った精液みたいな。
対象aとしてのワンナイト。いつかクズとして捨てられるがゆえに、逆説的に触れられることのない一夜。空っぽの浣腸ボトル。縛り損ねたコンドーム。醤油臭い精液。愛すべきあのクズたち。あれがすべてだったのだろうか。

同性愛"と"異性愛

 最近、一同性愛者として、同性愛と異性愛の境界があいまいになってゆくのを感じる。

いや、むしろこういった方が適切かもしれない。それらがあいまいに”されてゆく”のを感じる。

 あらゆる境界は仮固定だ。

 それはつねに流動するし、一定に決まることはない。しかしながら、それは仮に固定される。そうであるがゆえに、境界は境界として機能する。

 境界にはなんらかのシャープさがある。固定的な二項対立を許容すると言っているのではない。本質ではなく固有性、ある種の、ゆるやかな鋭さ。

同性愛と異性愛の境界とはなんだろうか。

  同性婚の議論の高まりに伴って、両者の制度的差異は解消──すくなくとも減少の方向へと進んでいる。

 しかし、そうだからといって、「同性愛も異性愛も愛という点では同じだ」と言ってしまってよいのだろうか。

 もちろん、ダメである。

 それは政治的に、ではない。つまり「同性愛に対する歴史的/文化的な抑圧の文脈を捨象して両者を同列に並べるのは暴力的かつ不正である」というのではない。

 僕は両者の「愛」における構造の差異について言及したい。他ならぬ同一性の参照軸として持ち出される「愛」の複数性について述べたい。

 それはおそらく、われわれの日常をその耐え難いざわめきによって強迫的に支配する「政治的」な話ではない。それが政治的であることを免れないにしても。

 ジャック・ラカンによれば「女」は「男」──ファルス享楽に捉えられた存在──と違って〈他〉の享楽の可能性を有している。

 もちろん、「女」とてファルス享楽につねにすでに巻き込まれており、そこから特権的に抜け出せるわけではない。

 しかしながら「女」においてはそれ──ファルス享楽──が”すべてではない”のである。

ところで、ラカンの図式はほぼ完全に異性愛における男女を前提としている。そこに同性愛者の視点は欠けている。

 では、同性愛者の享楽とはなんだろうか。

 現代思想が”特権化”してきた〈他者〉への志向/思考。しかしそれとは別に、〈同なるもの〉、それをやすやすと享楽してしまう、〈他者〉を志向する者にとっての〈他者〉がいる。

 その〈同なるもの〉とは、自我も主体も自己同一性も意味しない。そこかしこにある、徹底的な表面。あらゆる〈内面=意味〉が収斂していく開口部としての皮膚。そこではもはや〈他者〉を〈他者〉たらしめる〈自己〉にとっての異質性という”本質”は意味をなさなくなる。

 ”それ”は意味しない/言わんとしない"Ça" ne veut pas dire 。Rien ne veut。

あらゆる意味を成立させる奥行きとしての「内面」、その泥水。排水溝に吸い込まれるロマン主義者のヘドロ。ルソーの糞便。

 〈同〉の享楽──そのように呼ぶことが許されるだろうか。

 同性愛者の「固有性」を強調するレオ・ベルサーニは、その一方であらゆる固有性が意味をなさなくなる同性愛者=同なるものたちHomos──そしてそれは「人間たち」でもある──の侵犯的身振りをパラドキシカルに描き出す。

 それは「溶け合い」ですらない。それは神秘主義者の夢見る湿気に満ちた宗教的法悦とはまったく異なる。そうではなくて、それは一種の”乾布摩擦”なのだ。混ざり合いではなく、闘いKampfの享楽。モノとの、モノの〈モノ性〉との遭遇。「兜」同士の果し合い。夜桜の乱れ。しどけなく。雫無く。

 「同性愛者と異性愛者の間には、享楽のモードについての「ズレ」がある」、”暫定的に”そう仮定してみること。作業仮説として、〈同〉の享楽と言ってみる。

 思想的な話は措いても、同性愛者と異性愛者の間には、”現実”の性愛行動のパターンにおける埋めがたい違いがあると思う。

 それはたとえばモノガミー規範に対する遠近とか、マッチンアプリに対する偏見とか、ポジションの反転可能性とか、倒錯的性行動に対する親近感とか、「恋愛」──ロマンティックラブイデオロギー──に対する違和感とか、挙げればキリがない。

 もちろん、これは私的な印象に過ぎない。異性愛者でもモノガミー規範に対して距離を取っていたり、ポジションの反転可能性を試したり、そういった実践が確かに存在していることは知っている。もちろん、その逆もしかりである。

 それでも、やはり両者の間にはなにか別の構造が、欲望を別の仕方で駆動させるなにかが噛んでいるはずなのだ──と思うのは、僕のわがままなのだろうか。

 人間の「内面」という制度。近代の作り出した怪物。僕はそれに対する執着を急速に失いつつある。誰のせいだろうか。ラカンだろうか、フーコーだろうか、ベルサーニだろうか。いまのところは、彼らの表面をありがたく流離ってゆくこととしよう。

 

『フランケンシュタイン』、あるいは矮小存在としての怪物(2021/2/23)

ひとは一人では生きていけない。

これほどまでに使い古された警句もそう多くはないだろうと思いつつ、しかしそこには一種の途方も無い「正しさ」が込められているという気がしてしまうのも、それはそれでまた、いつの時代にも古びることのない「真実」なのかもしれない。

してみれば、昨今のアカデミズムにおける「ケア」や「依存」への注目も、突き詰めてみれば「ひとは一人では生きていけない」ということの政治的再確認なのではないか。

要するに、競争と自己責任を称揚する一連の言説が意識的にも無意識的にもひとびとを侵食する現代の加速的社会状況において、「ひとは一人では生きていけない」といういかようにも否定し難い「事実」を諸言説のフロンティアにおける「抵抗」として(再)発見しようとする、その身振り。

そうだ、人ははひととひとが支え合って生きている(!)

しかし、ちょっと待ってほしい。人はその「事実」を、あらゆる人間存在はつねにすでにだれかに依存しているのだという「真理」を、──あるいはこう言っても良いかもしれない──「生の根源的な受動性」を、みずからの身体でもって受け容れることは果たしてできるのだろうか。

ところで、古代ギリシアでそうであったように、あるいはまた、現代でもそうであるかもしれないように、セックスにおいて受動的な振る舞いをする主体は、どこまでも忌避され、他者化される(男性同性愛者における「ウケ(ネコ)」を想起されたい)。

ここで駆動しているのは受動性の抑圧(フロイト)の機制にほかならない。ひとは──あるいは男性的=能動的であることを前提とする近代的主体は──みずからが受動的な享楽に浸るその姿を容認できないのだ。

とすれば、「ひとは一人では生きていけない」ということも、近代的主体としての「ひと」にとっては耐え難いはずだ。いや、というよりも、あらゆる受動性への嫌悪はこの「事実」に対する耐え難さに帰着するのではないか。

そしてその「事実」は、この世に産み落とされた赤子の「寄る辺なさ(フロイト)」に収斂する。つまり、生それ自体の他者=養育者への依存、母子一体の幻想。

この時期の幼児は統一的な自我を持っておらず、それゆえに自律という観念それ自体を知らない。言語はまだなく、泣き声とつたない身振りが反復される。

しかし幼児は母子一体の幻想に浸り続けることはない。やがて象徴界ラカン)に参入し、他律的に言語をインストールすることで、逆説的にも「主体化assujetissement」することとなる。つまり、ひとは二度生まれる。一度目は母によって、二度目は言語によって、というわけだ。

したがってそこにはある種の人間疎外がある。ひとは言語という他者を受け容れることで主体になるが、そこから言語化できない過剰なものとしての「自己」が不断に逃れ去っていく、という疎外。

前置きが長くなったが、最近、久しぶりに小説を、ということでメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読んだ。

ざっくり説明しておくと、この作品は生命の創造に成功した科学者ヴィクター・フランケンシュタインが、その創造物たる「怪物」があまりにも醜くおぞましい容貌をしていたがゆえにその場から逃亡、みずからの「罪」に苦悩し、怪物は怪物でその醜さゆえの孤独や人々の拒絶にあえぎ、創造主たるフランケンシュタインへの復讐を誓って彼の家族や友人、婚約者をつぎつぎに殺害してゆく──といった展開になっている。

さて、細かい内容は読者の観察に委ねるとして、僕が提起したいのは次のような問いだ。すなわち、なぜ『フランケンシュタイン』に登場する「怪物」はあれほどまでに醜く描かなければならなかったのか──。

まず、『フランケンシュタイン』における「怪物」(怪物がフランケンシュタインなのではないということに注意)は、フランケンシュタイン博士(創造主)に対して被造物の位置を占めている。

言い換えよう。怪物はこの世に生を享けた──まさに「創造主」によって(!)──のであり、その存在にはつねに受動性の烙印が押されている。

生まれたばかりの頃を回想して怪物は言う。「おれは哀れで、無力で、みじめな存在だった。何もわからず、何ひとつ識別できず、身体じゅうのあちこちから苦痛が侵入してくるばかりだった。おれはその場に坐り込んで泣くしかなかった。」(207)

ここに表象されているのはまさしく生まれたての赤子の「寄る辺なさ」そのものである。彼は無力さや苦痛に対してただただ受動的に振る舞うしかない。つまり、彼にはそれらを「昇華」する言語は存在せず、ただただ涙をあたりに撒き散らすことしかできないのだ。

そしてその「寄る辺なき」存在は、近代的主体にとってはなによりも耐え難いものであった。とりわけ、近代科学の申し子たるヴィクター・フランケンシュタインにとっては。

ここでフランケンシュタインはそうした根源的に受動的な存在者としての怪物を「養育」することを拒絶する。つまり彼は「母親」になり損ねた、というわけだ。

根源的な受動性に直面することへの恐怖としてのネグレクト。そしてそれは、突き詰めれば「幼児としての過去の自分」を想起することの拒絶である。寄る辺なき存在としての自己。たしかに存在した幼児期の自己。

仮に答えを出しておこう。なぜ怪物はあれほどまでに醜く描かれざるを得なかったのか。それはまさしく、怪物が母親の乳に生かされていた「過去の」フランケンシュタインの投影にほかならないからである。

と、特段こうした読みの独自性を強調するわけでもなんでもなく、おそらくこのような読みは巷に溢れかえっていることだろうが、それでもやはり、僕には「怪物」がフランケンシュタインの内部に宿った「他者」の投影にしか見えないのである。

精神分析理論やいわゆるポストモダン思想が暴き出したのは、われわれが自明のものとしてきた統一的な自己さえも近代が生み出した虚妄に過ぎず、その内部にはなんらかの統一体に還元しえない複数性pluralityがうごめいているということだった。

しかしながらそうした複数性は近代的主体にとっての最高悪になりうる。なぜならそれは自己のうちに異質なものたる他者を内包することを含意し、自由と自律の基盤たる自己─同一性を不断に侵食せんとする反─「リベラリズム」的概念にほかならないからだ。

こうして啓蒙のプロジェクト(カント─ハーバーマス)は挫折し、瓦解する。

ゆえにこそ、仮に意識的─言語的に複数性という概念が受容され、容認されたとしても、無意識的─現実的にはそれは忌避され、棄却される。某かの近代的主体は、女性に、同性愛者に、障害者に、心からの寛容と連帯を表明するが、彼の身体はそれらを拒絶し、他者化する。彼は決してそれらに「なるbecome/devenir」ことはない。

フランケンシュタイン』が描き出すのは、そうした自己と自己のうちの他者との葛藤である。それはさながら、意識と無意識の境界をさまよう精神分析臨床のようだ。複雑な入れ子構造をなす諸アクターの語りかけは、まさに分析主体の「告白」にほかならない。読者が経験するのはあたかもみずからが精神分析医になったかのような稀有にして不気味な事態である。

いまやフランケンシュタインはみずからの無意識にその生を明け渡しつつある。彼は譫言に声を貸す。「ウィリアムを、ジュスティーヌを、そしてヘンリー・クラーヴァルを殺した張本人はほかならぬ自分だ[…]」(351)。もはやフランケンシュタインと怪物の、意識と無意識の、自己と他者の、生物と無─生物の、理性と感情の、その他もろもろの二項対立は、二人の死への誘われによって消尽しつつある。

彼らの精神分析は「終わった」のだろうか…

ひとは一人では生きていけない。しかし、ひとは一人では生きていけないということに耐えられない。その先にあるのは、「生きる」という大前提の否定なのだろうか。主体の無機物化としての死の欲動。それが答えなのだろうか。

ヴィクター・フランケンシュタインは死んだ。怪物は「闇のはるか奥へと消えていった」(446)。

そう、怪物は死んだわけではない。ただただ消えていったのだ。闇の奥、あらゆる主体の消失点へ。死ぬのではなく、矮小になること。膨張する主体を貧困化し、肥えた肉を削ぎ落とした、その末に見いだされる、一粒の黒砂。

フランケンシュタインの家族がつぎつぎと殺されていく過程、それはどこにでもある凡庸な悲劇ではない。この一粒を見出すための「剪定」なのだ。

生きることも死ぬことも拒絶し、矮小存在になること。すべての関係性の結節点たる闇、そこに輝きを持たぬ光、一粒の黒砂が穏やかに轟く。それはおそらく、微小表象たる無意識にのみ許された諸存在の極北なのだ。そう、根源的な受動性の体現者たる「怪物」にのみ開かれた、鮮やかな鈍色の抵抗。

誰への?すなわち、あらゆる解釈的実践の主体たる「作者=創造者」への。

生きるとも死ぬとも違った形で存在論を考えてみたい、と常日頃から思っているのだが、『フランケンシュタイン』はどうもそれに適していたらしい。なんの脈絡もなく、ただただ偶発的に訪れる外傷に対して、われわれがなしうること。それはおそらく、滑稽に身を縮めることでしかないのだろう。

2021/2/23

メアリー・シェリー著芹澤恵訳『フランケンシュタイン新潮文庫、2015

『ラカニアンレフト』と消費主義(2021/2/19)

例えば中吊り広告を見て、あるいはツイッターの新刊告知を見て、ひとは本を欲望するだろう。

書店に赴き、あるいはAmazonでポチって、ひとは本を購入するだろう。

家で、カフェで、図書館で、音楽を聞きながら、コーヒーを飲みながら、あるいはなにもせずに、ひとは本を消費するだろう。

ところで、欲望するとはなんだろうか。

ひとは欲望する、しかし、なぜ、何を?

それはなんらかの本能を満たすための動物的─機械的な必要needではない。ましてやそれを満たすために必要となる、他者とのコミュニケーション、そしてその副産物としての愛loveでもない。

欲望するとは、現実的な領野において、必要を満たすための「欲求besoin」ではないし、それを他者に伝達するための、象徴的な領野における「要求demande」でもない。

そうではなくて、欲望するとは、欲求と要求の弁証法において、つねにそこからこぼれ落ちてしまう始原的な「(不)満足」──現実界象徴界の「裂け目」──を「欲望désir」することなのだ。

欠如と欲望の不幸な「結婚」。いや、結婚と離婚の終わりなきシーソーゲーム。したがって、欲望は「満たされる」ことを知らない。欲望は対象の周りを回り続ける。そして、その「対象」とは対象=原因としての対象aである。

まぎれもなく、こうした欲望と欠如の関係を暴き出したのは、精神分析ジャック・ラカンであった。

さて、『ラカニアン・レフト』の著者、ヤニス・スタヴラカキスはラカン理論を政治経済分野に接ぎ木しつつ、消費主義について論じる。

彼は著書全体において、ラカン理論における「享楽(さしあたりは「不快の快」と定式化しておこう)」の重要性を強調し、エルネスト・ラクラウを代表とする言説理論が情動的側面を見逃していることを批判する。

したがって消費主義を論じるにあたっても、そうした「主義(そんなものがあるとすれば)」を成立せしめている言説の配分の諸法則を分析するのではなく、より享楽という非─言説的側面にフォーカスした分析がもとめられる。

もちろん、享楽や情動に言説的側面がないわけではない。

しかしながら情動の「情動性」を言説によって汲み尽くしてしまうような凡庸な身振りはいささか食傷気味と言わざるを得ないだろう。

それはある種の「合理化」に、ラカン的に言えば象徴界的な構造分析のみに帰着してしまう。

彼は合理的選択モデルに基づく伝統的な消費社会分析、つまり主流派経済学の「ホモ・エコノミクス」仮説に依拠した経済学的分析を批判し、ラカン理論における「欲望と享楽の問い」をそれに対置させる。

「本章で私が議論したいのは、次のことである──根底的な批判において支配的な形式である「恨み事」のような議論が、消費文化を基礎づける享楽のダイナミズムを想像することすらできなかったこと、そして、そのような議論が「虚偽意識」のパラダイムに捉えられ、欲望と享楽の問いであったものを、知と合理性の問いに還元してしまい、現実主義的なオルタナティブを一切提供できなかったこと、さらにその結果として起こったのが、(究極的には不能である)抑制の文化の敗北であること、これである。(290)」

要するに、広告産業に基づく消費主義は「合理的」に分析しても仕方なく、そこにはむしろ非─合理的な、というよりも「情動的」な問いが横たわっているということである。

こういってみると、「ホモ・エコノミクス」は人間をわかっていない!そこには汲み尽くせないものがあるんだ!という、入学したての学部生的な反抗がどうしようもない形で反復されているように見えるかもしれない(その問いはもちろんあって然るべきなのだが)、が、そうはいっても、消費社会分析において情動が情動そのものとして取り扱われていない、というのはもっともらしい。

では、消費主義における「欲望と享楽の問い」とはなにか?

冒頭で述べたように、欲望は「完全に満たされることはない」。

とすれば、消費社会における商品の「乱造」やブランドによる「差異化」は、まさにその「満たされることなき」欲望のメトニミー的性格と密接に関係しているのではないか?

スタヴラカキスによれば、「[…]消費主義が次々と商品を生産することや、広告によって新しい欲望を刺激することや、欠如と欲望のあいだの弁証法の操作に依拠することは、人間の現実の象徴的構成にとって無縁ではない。(293)」

象徴的秩序から常にこぼれ落ちるものとしての始原的(不)満足──あるいは、享楽──は欲望の到達点にはなり得ない。

これを買えばあれが欲しくなり、あれに飽きればそれが欲しくなる──その、循環。

欲望のメトニミー的構造、と言った。メトニミーとは「部分で全体を表象すること」である。したがって、欲望がメトニミー的であるとは、欲望は部分対象=原因としての対象aを通じて、失われた現実的なものとしての「享楽(=全体性)」を目指す、という図式を指しているのだが、不幸なことに、部分は全体にはなり得ない。

さて、ここで冒頭の「例えば」である。

ひとは本をなぜ欲望するのだろうか。

いまやそれは明らかなはずだ。

すなわち、ひとは対象aとしての本des livresを換喩的に読み続ける──あるいは、読み滑る──ことで、全体としての「本」なるものUn livre──それは「絶対知」といってもよいかもしれない──を追い求めているわけである。

そもそもひとは本を欲望しているのではない。一者としての「本なるもの」を欲望しているのだ。

この思想家の著作を次々に読んでいけば、その思想家の「すべて」を知ることができる。さあ、読みなさい、読み続けなさい。

しかし、こうした試みはもちろん失敗する。

なぜなら、不可避的に象徴の秩序のもとで生きるわれわれにとって、全体としての享楽はつねにすでに獲得しそこなわれものでしかないからである。

では象徴を超えればよいのか?

もちろん、それは不可能である。不可能である以前に、それはひとの思い上がりである。「言語では表しきれないもの」にノスタルジーを抱くのはひとの勝手だが、それが「獲得できる」と思うのであれば、まさしくファシストの夢想にほかならない。

まとめよう。消費主義の戦略とは、欲望のメトニミー的性格を巧みに利用し、「広告」によって消費者の「失われた現実的なもの」に対する欲望(もちろん、これは失敗を義務付けられている)を喚起することで、その最上位審級としての資本主義を永続させることにある。

スタヴラカキスは言う。

「享楽を命令する社会において、私たちは消費者として呼びかけられる。この呼びかけは、「消費せよ、欲望せよ、享楽せよ」といった一見したところ無害な指令を、後期資本主義を維持し、服従シニシズムを再生産するような欲望と享楽の構造化へと翻訳することに成功している(314)」。

いまや消費者は次の倒錯的命令──それは「資本主義」という超自我による命令である──に服従せざるをえない。

すなわち、「万国の消費者よ、享楽せよ!」

などど吹聴しておきながら、ドトールでコーヒー片手に本を消費している僕なのであった。

(2021/02/19)

ヤニス・スタヴラカキス著/山本圭松本卓也訳『ラカニアン・レフト──ラカン精神分析と政治理論』岩波書店、2017