同性愛"と"異性愛

 最近、一同性愛者として、同性愛と異性愛の境界があいまいになってゆくのを感じる。

いや、むしろこういった方が適切かもしれない。それらがあいまいに”されてゆく”のを感じる。

 あらゆる境界は仮固定だ。

 それはつねに流動するし、一定に決まることはない。しかしながら、それは仮に固定される。そうであるがゆえに、境界は境界として機能する。

 境界にはなんらかのシャープさがある。固定的な二項対立を許容すると言っているのではない。本質ではなく固有性、ある種の、ゆるやかな鋭さ。

同性愛と異性愛の境界とはなんだろうか。

  同性婚の議論の高まりに伴って、両者の制度的差異は解消──すくなくとも減少の方向へと進んでいる。

 しかし、そうだからといって、「同性愛も異性愛も愛という点では同じだ」と言ってしまってよいのだろうか。

 もちろん、ダメである。

 それは政治的に、ではない。つまり「同性愛に対する歴史的/文化的な抑圧の文脈を捨象して両者を同列に並べるのは暴力的かつ不正である」というのではない。

 僕は両者の「愛」における構造の差異について言及したい。他ならぬ同一性の参照軸として持ち出される「愛」の複数性について述べたい。

 それはおそらく、われわれの日常をその耐え難いざわめきによって強迫的に支配する「政治的」な話ではない。それが政治的であることを免れないにしても。

 ジャック・ラカンによれば「女」は「男」──ファルス享楽に捉えられた存在──と違って〈他〉の享楽の可能性を有している。

 もちろん、「女」とてファルス享楽につねにすでに巻き込まれており、そこから特権的に抜け出せるわけではない。

 しかしながら「女」においてはそれ──ファルス享楽──が”すべてではない”のである。

ところで、ラカンの図式はほぼ完全に異性愛における男女を前提としている。そこに同性愛者の視点は欠けている。

 では、同性愛者の享楽とはなんだろうか。

 現代思想が”特権化”してきた〈他者〉への志向/思考。しかしそれとは別に、〈同なるもの〉、それをやすやすと享楽してしまう、〈他者〉を志向する者にとっての〈他者〉がいる。

 その〈同なるもの〉とは、自我も主体も自己同一性も意味しない。そこかしこにある、徹底的な表面。あらゆる〈内面=意味〉が収斂していく開口部としての皮膚。そこではもはや〈他者〉を〈他者〉たらしめる〈自己〉にとっての異質性という”本質”は意味をなさなくなる。

 ”それ”は意味しない/言わんとしない"Ça" ne veut pas dire 。Rien ne veut。

あらゆる意味を成立させる奥行きとしての「内面」、その泥水。排水溝に吸い込まれるロマン主義者のヘドロ。ルソーの糞便。

 〈同〉の享楽──そのように呼ぶことが許されるだろうか。

 同性愛者の「固有性」を強調するレオ・ベルサーニは、その一方であらゆる固有性が意味をなさなくなる同性愛者=同なるものたちHomos──そしてそれは「人間たち」でもある──の侵犯的身振りをパラドキシカルに描き出す。

 それは「溶け合い」ですらない。それは神秘主義者の夢見る湿気に満ちた宗教的法悦とはまったく異なる。そうではなくて、それは一種の”乾布摩擦”なのだ。混ざり合いではなく、闘いKampfの享楽。モノとの、モノの〈モノ性〉との遭遇。「兜」同士の果し合い。夜桜の乱れ。しどけなく。雫無く。

 「同性愛者と異性愛者の間には、享楽のモードについての「ズレ」がある」、”暫定的に”そう仮定してみること。作業仮説として、〈同〉の享楽と言ってみる。

 思想的な話は措いても、同性愛者と異性愛者の間には、”現実”の性愛行動のパターンにおける埋めがたい違いがあると思う。

 それはたとえばモノガミー規範に対する遠近とか、マッチンアプリに対する偏見とか、ポジションの反転可能性とか、倒錯的性行動に対する親近感とか、「恋愛」──ロマンティックラブイデオロギー──に対する違和感とか、挙げればキリがない。

 もちろん、これは私的な印象に過ぎない。異性愛者でもモノガミー規範に対して距離を取っていたり、ポジションの反転可能性を試したり、そういった実践が確かに存在していることは知っている。もちろん、その逆もしかりである。

 それでも、やはり両者の間にはなにか別の構造が、欲望を別の仕方で駆動させるなにかが噛んでいるはずなのだ──と思うのは、僕のわがままなのだろうか。

 人間の「内面」という制度。近代の作り出した怪物。僕はそれに対する執着を急速に失いつつある。誰のせいだろうか。ラカンだろうか、フーコーだろうか、ベルサーニだろうか。いまのところは、彼らの表面をありがたく流離ってゆくこととしよう。