終わりある一日

(ちょっとした短編小説です)

  中央林間から長津田方面へ、田園都市線の薄暗い線路が伸びていた。

 ところどころに屹立する高層ビル、そしてそれらが放つ健全で市民的な光が行き先を照らしている──かのようだった。

 時刻は21時を回っていた。それほど遅くない、と思いつつ、スウェットのポケットにしまったスマホが二回振動して、いやいや、それなりに遅いのだ、ということをいやでも認識する。

 二回の振動とは、つまり母親からのメッセージを意味する。おそらく帰宅がそれなりに遅くなっているので、心配してメールでもよこしてきたのだろう。

 僕はいくばくかの罪悪感を感じつつ、20歳になっても過保護なままの母に苛立ちを覚える。そして腹いせにメッセージを無視する。もちろん、母親の言い方もだいたいは遠回しだ。過保護なことを自覚しているのかもしれない。「鍵閉めとくから自分で入って」とかなんとか。しかしそこにはたしかな母権の眼差しがある。フーコーとかを読んでいる僕からすれば、それに耐えられる道理はなかった。

 歩きだしてかなりの時間がたった。もう1時間半ぐらいだろうか。昼から家で遊び、流れでセックスして、それから歩いて僕の最寄りまで行こう、と言い出したのはいったいどちらだっただろうか。僕の気もするし、そうでない気もする。

 途中で歩きながら酒を飲もう、と彼が言い出したので、二人でコンビニに立ち寄った。彼がレモンサワーを手にとったので、僕もそうした。とりあえず僕は檸檬堂の7%。彼のはよく知らないメーカーのものだった。

 その缶ももう空になった頃合いに、たまたま見つけたミニストップで用を足す。ミニストップがいまだに存在していたのか、と驚く。ファミマに買収された、とかなんとか聞いていたんので、てっきり店ごとなくなったのかと思っていた。

 とりあえず用を足し終える。どうやら二人ともすでに酔いが回って、今はと言えば、良いが回りきったあとの正気に戻る感覚にぷかぷかと浮かんでいる。それはそれで心地よい、といってしまえるほどの感覚。

 足がつかれたので公園か何かで休憩しよう、と僕が言う。アルコールのせいかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにせよ、時間はそれほど気にしなくてよいはずなのだから、多少休憩しても許されるだろう。許される、と思うのは、僕の母親に対する罪悪感の現れなのだろうか。

 ひとまず母ではなく彼からの許しは得た。というより、彼も疲れていたらしかったから、休憩する方向で合致した、と言ったほうがいいかもしれない。そうこう話していると、大通りの自動車にあおられて、ふいに醤油みたいな臭いがする。二人ともそれなりに汗をかいているからだろうか。男の臭いだな、と思う。その事実に素直に驚く。

 早速グーグルマップで近くに公園を見つけたので、とりあえずそちらに向かう。帰路からは少し外れるが、まあいい。帰りたくない、というわけでもないはずなのだが。いや、帰りたくない、というのも、それはそれであるのかもしれない。

 電子地図によって与えられた「公園」という文字列とは打って変わって、たどりついた先には丘状の湿った草原しかなかった。もっとベンチがあって、遊具があって、というのを求めていたのだが、これはこれでいいのかもしれない。とりあえず丘を登って、ひと目のつかなそうな薄暗がりに切り株を見つけ、そこに腰掛ける。二人とも大して大きくないので、一つを二人で共有することにする。

 「好きだけど、まだ付き合うのは早いかな。なんかチャラいじゃん」

 彼が突然言い出す。僕は別に告白もしていないし、好きだとも言っていないのだが。それでも、なんだか「負けた」気がしてしまう自分に、微妙にムカつく。ムカつくが、そんな自分を愛おしい、とも思う。なぜだかはわからない。

 ところで、「チャラい」とはどういう意味で言ったのだろう。ゲイ向けマッチングアプリで出会って三回目程度で彼氏になる、ことに対してなのか。そこらへんの規範はよくわからない。グーグル検索の最上位に出てくる記事によれば、異性愛カップルでは三回目程度のリアルで告白するのが定石らしい。つくづくよくわからない、と思う。

 僕は「そう」と返す。返答になったかはわからない。そもそも何に対して返答しているのかもよくわからない。ただ、あたりに立ち込めるまとわりつくような雑草の臭いだけが確かだった。

 「この業界って、性欲だけで動く人多いじゃん、だから、付き合うならその人の内面とか本質を慎重に見極めたいな、って。半年ぐらいはさ」

 そういう意味だったのか、と思いながら、性欲の上に恋愛を置くような紋切り型で市民的な価値観に辟易とする。こんなとき、どこから説明したものか、とついありがちな研究者のパターナリズムを繰り出してしまいそうになる。それをじっとこらえる。いや、こらえられそうにない。

 「フーコー」というあまりにも厳つい固有名が喉元まで出かかっている。人の内面っていうのは近代の産物で・・・とか、本質とかアイデンティティとかって疑うべきもので・・・とか。しかしここは読書会でも研究発表会でもない。とりあえずその案は喉元で保留する。

 「確かにわかるけど、俺は人の本質がどうかってことじゃなくて、人と人が関係して人がどう変わるか、っていうことに興味があるんだよね。たとえば、俺なんかはもともとストリートカルチャーとか陽キャっぽくて大嫌いだったけど、ある哲学者に影響されてそういうファッションし始めたら、なんか個人的にしっくりきちゃったんだよね。みたいなさ」

 代わりにそう言ってみるが、どことなく自己啓発セミナーみたいな臭いがしたので、すかさず「自己啓発セミナーじゃないけどさ」と言っておく。ふいに出た「俺」という一人称が眩しすぎて痛い。いちおう、フランス現代思想を下敷きにしたつもりの解説だった、のだが、固有名を出さないことで逆にぎこちなくなってしまった。

 「それは、僕の「慎重に見極めたい」って考えも変えられる、ってこと」

 ああ、そういう捉え方になるのか。どうやら彼は、僕が半年も待てないから「変化」を持ち出すことで別の仕方で口説こうとしている、と思ったらしい。「いや、そうじゃなくて」と言ってみて、意外とそうだったのかもしれない、と思う。でも、そうじゃない──のかもしれない。すくなくとも、それがすべてではない。

 「それぞれ人には本質があって、それを知るために恋愛する、って、なんか俺は面白くないと思うんだよね。それより、お互いなんかよくわからないまま影響し合う、みたいな方がスリルあっていいと思うんだけど」

 「ああ、たしかにね」

 「もちろん俺個人の考えだから、別に鵜呑みにしてくれなくて大丈夫だけどさ」と付け加える。

 「自分の考え、か。僕、自分の考えってあんまり言うの得意じゃないんだよね」

 「そう、そっか」

 何秒間か沈黙があった後、唐突に彼が泣き出した。理由はよくわからない。少しだけわかるような気もする。

 「ごめんね、泣いてるのはさ、なんか怖くて」

 彼が言う。

 「自分、同性愛者ってこともあってさ、いままで自分の意見とか、ずっと隠して生きてきたんだよね。なんか言われるんじゃないかって、怖くてさ」

 「うん」

 どうやら彼は、僕が「自分の考えを述べた」ということに触発されたらしい。ただ酔うために作られたような市民的レモンサワーが、そのキリリとした酸味で、因果関係をめちゃめちゃにしてしまう。僕はと言えば、彼の悩み自体はおそらくよくあるもので、特に驚きはしなかった。ここで無理に共感するのも違うし、言ってごらん、と諭すのも違う。だから僕はうなずくことしかしなかった。その時、一瞬だけ、僕は分析主体の発話に区切りを入れる精神分析家のあり方が理解できた気がした。同時に、僕は彼のスクリーンになっていく自分にそこはかとない快感を覚えていた。自己破壊、というよりも、自己の構成要素たる部分が無数のそれに発散していき、なおかつそれらが無関係なまま並置されている、という感覚。多方面に散らばる光子。それらが僕の表面で波をなす──かのように振る舞う。

 しばらく背中をさすって、彼は泣くのをやめた。正直、彼の涙の理由とか、彼のアイデンティティへの問いとか、そういうことにはあまり興味がない。興味がない、というより、昔からそういう「内面」的な話が苦手だった。苦手であるがゆえに、過剰に共感を示し、しまいには自分が疲れてしまう。それもそれで万人の「あるある」のうちの一つにすぎないのだろうか。ともかく、僕はそういう話を馬鹿正直に受け取ることだけはしたくなかった。

 それでも、僕は、彼の話を聞いている──というより、撥ね返していることに、途方も無い快楽を見出している。それは彼に共感できたからでも、彼の内面を知れたからでも、ましてや彼の本質を理解できたからでもない。そうではない。そうではなくて、それはおそらく、会話という営為が、それらだけがすべてなのではない、ということを知ってしまったからなのだろう。

 一方で僕は彼の方を見つめ、一方で僕はまったく別の方を向いている。それらの眼差しは相互にまったく関係していない──のだが、偶然並置されてしまっている──かのように、振る舞っている。かのように。僕と彼は市民権の光に導かれて帰路をたどる──かのようにして、まったく別の方角へ進もうとしている、のだろうか。それは明るさとも暗さとも違う、たしかな輪郭をもち、それでいて流動している、仄暗さの、煮こごりみたいな仄暗さの、その方。その方へ──

 「23時だけど」

 「え」

 「終電あるしそろそろ行こうか」

 「うん」

 最寄りまではまだ30分ほどかかるらしい。いっそ終電に乗りそびれてしまえばいい。いや、そうなったら面倒だ。僕は帰れるが、彼は帰れない。泊めていく場所もないし、そもそも現在進行系で金欠なのだった。

 とりあえずここまでか。そう思いながら、僕は今日という日に句点を打つ。もしかすると、読点で良かったりもするのかもしれない、などと逡巡しながら。